我が輩はモゥーモゥーの牛である。
以前は人間もしておりました!
我がモゥーモゥーと人間の間で見た聞いた話をするモ~。
正月も終わり、早や2月じゃモゥ~。
今年は新型コロナでモゥ!モゥ!大変な正月だったなぁモシ。
我が輩が牛だった頃に聞いた話じゃがいくつか面白かったりフ~ンと考えたり、
まぁ~印象に残った事を述べようなモシ!
一、真理に興味を持つようになる探求者には二種類あると言う。
ある人は経典を探し始めるらしい。
その者は大した知識人になり、偉人?物知り博士になるかも知れないが、内側は暗闇のままである。
なぜなら彼の得た知識、光はすべて借り物だ!と言う。
借り物の光は人生の危機の役には立たないとも言っている。
ある話:私はキリストの「誰かがあなたの頬をぶつなら、もう片方も差し出しなさい。」という
言葉を経典から学び、説教のたびに繰り返していたある神父のことを思い出した。
みんなが彼の説教を気に入っていた。そういう類いの偉大な言葉を経典から引用していたからだ。
ところが、ある日曜日、一人の男が実際に立ち上がって神父の頬をひっぱたいた。
神父はショックを受けた。ちょうどイエスを引用していたところだったからだ。
しかしなんとか面目を保つために彼はもう一方の頬を差し出した。みんなこの状況を見ている!
するとその男は本当に反逆的なタイプだったに違いない。彼は他の頬もひっぱたいた。
音よくパーン!!とやった!
さあ、これはあんまりだった!
神父はその男に飛びかかって彼を殴り始めた!
するとその男は言った。「何をするんですか!」
神父は答えた。「聖書(経典)が言っているのは二番目の頬までだ。
その次は俺とおまえとで決着をつかようじゃないか。」
借り物の経典は現実に出くわした時には役に立たないらしい。
人生には日々直面すべき現実がある。
死に際しては、究極の現実に直面しなければならない。
借り物の知識は全く何の役にも立たない!
一、二番目のタイプの探求者は経典、聖典等には向かわないで師(マスター)を探し始める。
これらは二つの異なった次元でもある。
一方は知識を求め、他方はまだ生きている生の声、源泉を探し求めている。
一方は死んだ経典を探し求め、他方はそのハート(心)がいまも脈打ち踊り、
その目の中にまだ深さを見ることができ、人が自分自身の潜在的可能性を見いだすことが
出来るような生きた経典、聖典を探し求める。
二番目のタイプこそが真正な真理の探究者であると言う。一番目のタイプは果たしてどうかな?
こんな話も聞いたなぁ~モシ。
教師は何も知らないがゆえに、自信に満ちて話す事ができる。
師は沈黙したままでいるか、話すときには非常な責任を持って話す。
なぜか!それは自分が表明することは矛盾してはいないが矛盾しているように見える!
ということを知っているからだ。しかし、すべての教師は師であると思われたい。
探求者にとってはこれが問題となるらしい!
まぁまぁ~いろいろな話もありますモゥー
こんな調子で今年も宜しくモゥーモゥーモゥー
あ、牛丼思い出した!
勾玉牛拝