神々のつぶやき No.43 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

我が輩はモゥーモゥーの牛である。
以前は人間もしておりました!
我がモゥーモゥーと人間の間で見た聞いた話をするモ~。

やれやれ、ようやく春のはじめに到着かなモシ。
そうだ!祈りに行こう。
今日のテーマは「意」のりはいろいろあるな~モゥー。

ある祈りの意について。その①

一人の男が牛である私の許へやって来て
「三十年も精進し祈ってきたが未だ神を理解するに至らない」と言った。
初めの初めっからこの男は間違った姿勢をしているね。
この男は非常に計算高いずる賢い人間だったに違いない。
そうでなければ愛と祈りの瞬間をどうして数えていられよう?
「私は三十年も祈ってきた・・・」

この計算が示しているのはビジネス精神だ。三十年だって?
よく数えていたものだ!この男はこの俗世の人間、欲深くって計算高いこの世界の人間だったに違いない。
脱俗した世界に移っていったのだが、その姿勢は同じで変わらなかった。

「私はこれこれ何日のあいだ断食をした。何回祈った。それなのに何も起こらないなんて?」
実のところ、もし祈りとは何かを知っていたら結果などどうでもいいはずだ。祈りそのものが結果だ。
その価値はすでに祈りそのものの内にある。祈る・・・・と、それだけで充分だ!
祈りは幸福、祈りは歓喜だ。
祈ること自体ですでに充たされる。他に何もいらない。

ところが、あなたがたは祈っていない時には祈りの結果を待ち焦がれる・・・人もいる!
そうなったら祈りは目的のための手段になる。が、祈りはけっして目的のための手段にはなりえない。
祈りはそれ自体で完結している。

すべての美しいもの、愛、祈り、瞑想、これらはすべてそれ自体で完結する。
他のもののための手段には大事な点を見逃すことになる。それらはただ楽しむだけでいい。
それはちょうど朝、散歩に行くのと同じだ。陽が昇り新しい一日が生まれる。再び生命が復活する。
夜の暗闇のなかからすべてがよみがえる。木々は目覚め、鳥たちは活気づき、
香ぐわしい新鮮なそよ風が吹きわたる・・・。
あなたは朝の散歩をただ楽しむ。それとも日記にこう書くかね?
「・・・・。私は三十年のあいだ毎朝散歩したがまだ何も起こっていない。」

朝の散歩は朝の散歩。それ自体で完結する。その目的はそれ自体の内にすでに備わっている。
あなたは散歩を楽しんだのだ。
毎朝のその散歩によって豊かになったのだ。その散歩によって将来いつか豊かになるというのではない。
まさに今、あなたを豊かにするのである。

いやはや!またまた大変な話だったなぁ~モゥー。
一体「意」のりと祈りはモゥー。よく分からないね。次回を待つべか!
ああ本日は神社でも行って牛丼でも食べっかな!モゥー。
つづく

勾玉牛拝

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