これはもう何十年も前の事です。
墓石屋さん又、宗教人との御縁から勉強させて頂いたお話をノートにまとめておいたモノを書いております。
第二話(招魂再生)
中国人はインド人と異なり、この世を苦とは考えず、楽しい所とみる。
五感(五官)の楽しみーー美しい物を見て楽しみ、心地よい音を聞いて楽しみ、気持ちよい物に触れて楽しみ、おいしい物を食べて楽しみ、かぐわしい物の香りを楽しみ、それらを大切にする。
インド人が生んだ仏教が五感(五官)の楽しみなどは夢幻に過ぎないと考えるのとは全く出発点が異なると申します。
ではなぜ中国人はそういう感覚の歓びを全面にすえ、即物的なのであろうか。それは、風土としてインドよりも中国のほうが住みやすいという理由だけではなく、もっと根本的な理由があるのである。
五感の歓びを優先すると言うことは、一般の人々にとって日常生活の歓びを優先することである。
現実生活――もちろん貧弱の者が大部分であるが、社会の大半も同じ様な貧弱レベルにあった。しかし、たとえそのように貧しくとも、そしてたとえ死の不安はあるにしても日々の平凡だが楽しい家庭生活に大きな価値を置いてきた。
しかし、死は必ず訪れる。とくに病気にでもなったりした場合、それは恐怖となる。当然、この不安や恐怖を和らげてくれるような説明を人々は求めてくる。
その点はインド人と同じである。またその説明は全世界に共通である。すなわち、宗教者が死ならびに死後のことを説明する(宗教とはほぼ当時は死ならびに死後の説明である)その説明の仕方は各民族、各地域によって異なる。というよりも各民族、各地域に相応した説明の仕方を行うことになり、それぞれが支持されているのである。
その意味では世界の宗教すなわち人類のだれにでも、世界のどこにでも通じる普遍的な宗教などというものはないのである。
すなわち、キリスト教はキリスト教なりに、仏教は仏教なりに、そして五感の歓びを大切にし、現実的、即物的、具体的な性格の中国人の場合、そうした地域、民族にふさわしい説明をする宗教者が登場することになる。
中国の場合その宗教者を「儒家」と呼んだ。では儒家たちは死後の世界をどのように説明をしたのであろうか。
続く
(第三の予告)
次回は「魂とは魄とは」です。
魂とは目に見えず魄とは肉体を支配する。
魄の場合「白」に意味があり、これは白骨を意味する。
ではまたね!