我が輩は寅ちゃんである。
寅は寅でもマガ寅と申します。
寅ちゃんが見た聞いた物語、始まり始まり!
OSHOが語る!
<まぼろしから真実へ。自己想起がどのように人間の心(マインド)を変容?させるのか その1>
人は自分自身に中心を据えていない。生まれたときは中心を据えていたが、
社会や家庭や教育や文化が人を中心から逸らしてしまう。
その逸らし方は知ってか知らずか非常に巧妙なものだ。
だから誰もがある意味でエキセントリック、つまり脱中心になる。
それには理由がある。生存にかかわる理由だ。子供が生まれると特定の訓練が施される。自由は許されない。
もし全面的な自由が許されたら彼は中心にとどまる。無為自然で自分自身とともに生き、自分自身を生きる。
そんな人間はあるがままで本来的だ。真正だ。だとすれば自己想起を実践する必要はまったくない。
瞑想を実践する必要はまったくない。なぜなら中心からまったく逸脱していないからだ。
そんな人間は自分自身にとどまっている。中心を据え、根を下ろし、自分自身の存在に落ち着いている。
でもそれはまだ可能ではない。
だから瞑想とは治療のようなものだ。社会が病気を創り出した。
そこでその病気を治療するというわけだ。宗教とは治療のようなものだ。
もし本当に自由に基づいた社会が進化したら、もはや宗教の必要はない。(全てではないが!!)
私たちが病んでいるからこそ治療が必要となる。私たちが脱中心であるからこそ、中心を据える方法が必要となる。
いつの日にか健康な社会、内側の健康な社会が地上に作られたら宗教は存在しなくなるだろう。
でもそんな社会を作るのは難しいだろう。私たちは周辺部に生きている。社会の許容範囲内にだけ生きている。
私たちの自由は偽りだ。なぜならゲームの規則、社会的ゲームの規則があまりにも深く染みこんでいるからだ。
いかに自主的に物事を選択しているつもりでも自分で選択しているわけではない。
その選択は教化されたマインドに由来している。そしてそれは機械的に行われる。
生涯に八人の女性と結婚した男がいた。ある女と結婚し、そして離婚し、それからまた別の女と結婚した。
とても用心深く、とても用心深く、とても用心深く。なぜなら前と同じ罠にはまりたくなかったからだ。
あらゆる方向から検討して大丈夫、この人は前とまったく違うと彼は思った。
ところが数日経ってまだハネムーンが終わらないうちに
その新しい女もまた前の女、最初の女とまったく同じだとわかってきた。そして六ヶ月するとその結婚も破れた。
それから三番目の女と結婚したが、前よりももっと用心した。でもまた同じことが起こった。
そして八人の女と結婚した。しかしそのたびにこの女もまた結局前の女と同じだとわかるのだった。
いったいどういうことか。とても用心深く、とても用心深く選んでいたのにいったいどういうことか。
それは選択者が無意識だったということだ。選択する者を変えることができなかったのだ。
選択する者がいつも同じだったら、その選択も結局同じものになる。そしてその選択者は無意識に働く。
あなたは絶えずあれこれをする。そして絶えず外側のものを変えて行く。でも本人は同じままだ。
中心を逸脱したままだ。だから何をしようといかにその外観が違っていようと究極的には同じになってしまう。
最後はいつも同じだ。だからたとえ自分は選択している、自分は自由だと思っていても、
あなたは自由でもなければ選択してもいない。その選択もまた機械的なものだ。
科学者、とくに生物学者によるとマインド(心)には刻印が押されるという。
生まれて4~5年の間に刻印が押されてしまうと言う。そしてそれはマインドの中で固定的なものとなる。
するとあなたはずっと同じことをやり続ける。機械的な仕方で物事を繰り返す。それは悪循環である。
つづく。
今回はこれくらいにしよう!
だったらどうなる!どうする!まったくわかんねえナー!
これは100回読まないとダメダべナー!
我が輩はマガ寅!