我が輩はモゥーモゥーの牛である。
以前は人間もしておりました!
我がモゥーモゥーと人間の間で見た聞いた話をそっくり語るモ~
“夜眠る前に贈る言葉 OSHOより”
モゥ~秋だなもし!でもまた正月が近くなったモシ!一年は早いなぁ~
暑い神々の話。その② ~神と調和~
人間は見た目ほどちっぽけな存在ではない。人は広大だ。途方もなく広大である。
人は大洋のようだ。大洋にさえ限界はあるが人間にはどのような限界もない!
大洋でさえ、それほど広大ではない。人間の広大さは神の存在を示す唯一の証明だ。
神とは人間の広大さを表すもう一つの呼び名だ。
私たちは肉体に押し込められたものでも、またマインド(心)に
押し込められたものでもない。私たちは両者を超えている。
生きるマインド(心)の全過程(プロセス)とは玉ねぎの皮をむくようなものだ。
そこには幾重にもなる自己証明が層をなしている。
それでも私たちはゆっくり、ゆっくりとすべての層を落としていかねばならない。
そして最後に残るものは無だ ―――その無こそがあなたである!
唯一、無のみが広大になり得る。何かには限りがある。「無」だけが無限だ!
それゆえ神とは究極の無だ!神とは何者でもない。完全に誰でもない者だ。
ただただ臨在(※キリスト教で見えない神がそこに存在すること。
また人の行為を通して神が働きかけたこと)であり無限なる境界なきものだ。
そしてまた私たちも。
私たちは神と異なるものではない。私たちはその無限性の一部だ。
価値あるもののすべてはそのまさに核からして調和に満ちている。
調和のないところに神は存在しえない。存在の中に見る調和は存在を何か目に見えぬ
何かがうまくまとめていることを証している。調和なくしてはいかなる愛もなく、
だがそれは目には見えぬ連なりであり、誰もそれを見ることはできない!
調和のとれた人間は必ず快活に、また美しくなるものだ。
それは必然である。快活さ以上に美しいものはなく、調和以上に優美なものはないのだから・・・
とOSHOは言う。モー!
相当暑い話だなぁ~モシ!
分かるかな?分んねぇだろうな~モシ。
神社へでも行くべこ!
勾玉牛拝