我が輩はモゥーモゥーの牛である。
以前は人間もしておりました!
我がモゥーモゥーと人間の間で見た聞いた話をするモ~。
さぁ~ 新緑の季節、春本番の5月!
馬より早く牛も走り!鳥より高く牛も舞い上がる!
ウッシッシ!の日々は続く。
ある祈りの意について。その③
タンセンの師は流浪のファキール(行者)で名前はハリダスという。
タンセンは人をやって師がどこにいるかを調べさせた。すると、
ジャムナ河のほとりの小屋にいることがわかり、
アクバル帝を伴ってその歌を聴かんものと出かけて行った。
付近の村人たちの話では、「真夜中過ぎ、三時頃になると時折歌ったり踊ったりなさいます。
それ以外は、日がな一日静かに坐っているだけです。」というわけで、
2人は夜中にまるで盗人のような格好で小屋の後ろに隠れて待った。
なぜなら、もしそこにいることを知れたら彼は歌わないかもしれないからだ。
しかし、ハリダスは歌い始めた。踊り始めたのだ!
アクバル帝は催眠術にかけられた様になった。声ひとつ出せなかった。
どんな讃辞も無意味な気がした。彼はただ涙を流すだけだった。
歌が止み、帰路につくときになっても、アクバル帝は何も言えなかった。
涙が絶えず頬を流れ落ちる・・・・
宮殿に戻り、廷内に入ろうとするとき、はじめてアクバル帝はタンセンに言った。
「わたしはおまえに勝る者はこの世にいないと思っていた。おまえこそ唯一独特と考えていた。
だが今ではおまえはその師と比べたら無に等しいと言わねばなるまい。
この違いはいったいどうしたことだろう?」
タンセンは言った。「違いは簡単です。私は何かを得るために歌い奏でます。
力を、威信を、金を、賞賛を得るために。私の音楽はまだ目的のための手段なのです。
私は何かを得るために歌う。
が、私の師は何かを得ているから歌うのです。それこそ2人の違いです。」
「師は自分の内側に何かが在る時だけしか歌いません。
そういう時には歌が流れ出で、踊りが起こるのです。
歌も踊りも副産物のようなもの。彼が神性に満たされ、
もうそれを抱えきれなくなって満ちあふれる時、
その時だけ歌うのです。師の歌はそれ自身で完結している。
彼は祝福するのです!」
そしてそれこそ、真の愛と偽りの愛の間にある違いだ。
真の祈りの人は数えることなどしない。
それは全くバカげている。祈りの一瞬はそれほどに豊潤であり・・・・あなたはもうそこにいない。
それは、あなたを完全に満たし尽くし溢れ流れ出す。
もしあなたがたに一瞬でも祈り、愛、瞑想の時が得られたら、あなたがたはいつまでもいつまでも
感謝の念を覚え続けるだろう。不平をこぼすことはないだろう。
正に祈りの「意」の1つの物語である。
モゥー タイへ~ン!
何が何んだか分かるかなぁ~モシモシ!
祈りは重要だモゥー
頭クラクラ!神社でも行くべかナー!
モウ オシマイ。
勾玉牛拝