神々のつぶやき No.44 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

我が輩はモゥーモゥーの牛である。
以前は人間もしておりました!
我がモゥーモゥーと人間の間で見た聞いた話をするモ~。

さぁ~ 春だモゥー ようやくやって来たモゥー
しかし今回の話も聞いた話だが大変本格的な話だなぁ~モシ。我がモゥーにはムズカシイー!

ある祈りの意について。その②
こんな悟りもあるモゥー。

<生命>はつねに現金払いだ。約束手形ではない。約束はしない。
<生>はキャッシュ、現金だ。即座に在るものだ。
今ここで<生>はあなたがたに与えられるすべてを与えている。
ハッピーで嬉しい気分の時、あなたは歌い出す。踊り出す。
それをあなたは数えるかね?日記につけるかね?

「・・・30年の間踊ったり歌ったりしてきたが、いまだ神の会得が起こらない」
それならあなたは踊ったことはない。あなたは踊る人ではない。
踊る技術は持ち合わせているかもしれないが踊る人ではない。
歌い方は知っているかも知れないが歌う人では全くない。
これがテクニシャンと踊る人との違いだ。
踊る人は踊る!そしてその瞬間、全てが達成される。その瞬間踊る人は失われるからだ。
エゴが死に、踊る人がいなくなる。踊りは在る。が、その中心はない。
その踊りは無限の海の1つの波だ。寄せてはかえしつつ存在し、かつ溶け消える。
テクニシャンが踊るとき、つまり訓練された踊り手が踊るときには操作がある。
それがいかに完璧であってもその踊りは死んでいる。なぜならそこに操作する人がいるからだ。
彼は計算している。どのくらい・・・・・と。

皆さんに話したいある美しい話がある。
これはインドの偉大なるミュージシャンだったタンセンという人物の生涯に起こった事だ。
タンセンはある日、宮廷の王様から言われた事があった!
「おまえに勝る者がいるなどとは想像もつかない。おまえは決定的な存在のようだ。しかしそう思うたび
私の頭に浮かんでくる考えは、おまえだって誰かの弟子として学んだのに違いあるまいということだ。
その師がお前に勝るかもしれないではないか?お前の師は誰だ?まだ生きているのか?
もしも生きているならこの宮廷に招こうではないか!」

タンセンは言った。「我が師は生きております。しかし宮廷に招くことはできますまい。
あの方は野生の動物のようなもの。宮廷に招き入れることはできません。
流れるがままに、ものごとが起こるがままに、あの方は動きます。社会人ではないのです。
風のような雲のような・・・あの方はこの世に根を下ろさぬ放浪者です。
それにあなた(王様)といえども、あの方に歌い踊ることを求めることはできません。
それは不可能です。あの方は歌を感じる時に歌い、踊りを感じる時に踊るのです。
ですから王様が彼の許に行って待ってみるほかありません!」と。

王様はこの話にすっかり魅了された。王様はタンセンを傾倒していたので
「このタンセンの師が生きているとは!どんなことをしても出かける価値がある。」と思った。
そして「その師がどこにいようとも私(王様)は行ってみよう!」と言った。

その③に続くモゥー

一体この文書は何だ!
ワシャー!モゥーモゥーの牛である。
モゥー!近所の神社でも行くべか!
デモ オモシロイ話だギュー!

勾玉牛拝

PAGE TOP