我が輩は鼠であります。
ですが、以前は人間もしておりました!
我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
【神が好み愛したある物語だとさ!】
遠い昔、彼は小さな村の神官(神職)だった。
村で問題が起こったり、病人が出たり、災難が起こったりするたびに、彼は森へ出かけた。
彼はとある木の下の、とある場所へ行き、そこで儀式を行い、神に祈った。
すると必ず災難は村から去り、病は村から消え、問題は解消するのだった。
やがて彼は死んだ。彼の後継者(神官)がやって来た。
しばらくすると再び問題が起こった。村は困っていた。何らかの災難が起こり、
村人たちは後継者である新しい神官に森へ行って神に祈るように頼んだ。
新しい神官はとても動揺した。彼はその場所、正確な木の場所を知らなかったからだ。
彼はよくわからぬまま、それでもどれかの木の下へ向かった。
彼は火をおこし儀式を行って祈り、神に言った。
「ご覧下さい。私は前の神官がよく訪れていた正確な場所を知りません。
でもあなた(神)は全能でどこにでも存在していらっしゃる。ですからご存じでしょう。
正確な場所は私ではよく分かりません。しかし私の村は困っています。
どうかお聞き届けていただき、ご加護を賜りますように。」
災難は去った。
その後、二代目の神官も亡くなり、三代目の後継者ができ、再び問題が起こった。
村はある危機に陥り、村人がやってきた。
彼は儀式の起こし方を知らなかったが、ともかく火をおこし神に言った。
「お聞き下さい。私は儀式の火のおこし方を知りませんし、正確な場所も知りません。
それにどのような祈りをすればよいのかもよくわかりません!
でも!あなた(神)は全知でいらっしゃるから、すでにご存じでしょう!
私が知る必要はありません。ですからどうぞ必要なことを賜りますように。」
そして彼が戻ると村は危機を脱していた。
その後、彼も世を去った。彼の後継者は・・・村は再び困難に陥り、村人たちがやって来た。
彼は肘掛け椅子に座っていた。彼は言った。
「私はどこへも行く気がしません。お聞き下さい!あなた(神)はいたるところにいらっしゃる。
私はどのような祈りをしてよいやら知らないし、儀式も知りません。
でも、そんなことは構わないのです。私の知識は重要ではありません。
あなた(神)はすべてをご存じです。祈って何の役に立つでしょう?
儀式や定められた聖域が何の役に立つでしょう?私は後継者たちの物語を知るだけです。
その物語をお話しします。これは遠い時代に起こったことです。そして後継者に、そのまた後継者に。
これがその物語です。さあ、神は正しいことを行ってください。それで充分です。」
そして災難は消え去った!
神はその物語をたいそう愛したと伝えられている。
遠い昔から人々は自分たちの物語を愛し、自分たちの神を愛した。有神論は物語のようなものであり、
無神論は物語に対立するものかも知れないが、何人となく仏陀の内的な観照と
アインシュタインのマインドの構造を二重、三重に重ね合わせたような物語である。
何となく分かる気もするチュー!
OSHOはスゴイチュー チュー チュー
勾玉鼠小僧拝