我が輩は寅ちゃんである。
寅は寅でもマガ寅と申します。
寅ちゃんが見た聞いた物語、始まり始まり!
<マインド(心)を超えて源泉へ>
ザ・OSHOいわく
人は結果を記憶し、その結果を想像し、願い、求め続ける。
人は自分自身をまったく簡単にだましてしまう?―――その結果を達成したと想像してしまう。
いつだったかある日、人が訪ねて来た。求道者だった。
非常に年取った老人だった。30年前に求道者になった人だった。そして今80近い。
彼は私のところへやって来て言った。「私がここに来たのは、知りたいことがあったからだ。」
そこで私はいったい何が知りたいのかを尋ねた。
突然、彼は様子を変えた。そして言った。
「いや。実は知りたいわけではない。ただあなたに会うためにやって来た。
もはや知るべきことは全て知ってしまった。」
30年間というもの彼は想像し、求め続けて来た。―――至福を、そして神的な体験を。
そして今、老年になって彼は衰え、死は間近となった。
そして自分はもう体験したという幻想を創り上げていた。
そこで私は言った。
「もし、すでに体験しているなら、黙ったまま私と一緒にしばらくここにいらっしゃい。語る必要はないはずだ。」
すると彼は落ち着きを失った。そして言った。
「それでは私がまだ体験していないと仮定しよう。さあ何か私に教えて欲しい。」
そこで私は言った。
「私にとっては仮定ということはありえない。もう知っているか、まだ知らないかのどちらかだ。
だからはっきりさせよう。もう知っているなら、そのときは沈黙を守る。ここにしばらくとどまり、
それから去ればいい。だがまだ知らないなら、はっきりさせることだ。知らないと私に言いなさい。」
彼は困惑した。彼がここにやって来たのは、いくつかの技法(タントラ)について尋ねるためだった。
そこで彼は言った。
「実のところ、まだ体験していない。だがアハム・ブラフマスミー私は神だ」について
一所懸命に考え続けてきたせいで、時々自分はただ考えているだけだということを忘れてしまう。
それを30年間夜も昼も繰り返してきたせいで、時々すっかり忘れてしまうーーー
「自分はまだ知らない。それはただ借りてきた文句だ」ということを。
どれが知識でどれが体験なのかを覚えているのは難しい。混乱してしまう。
混じり合って収拾がつかなくなる。知識はいともたやすく体験となってしまう。
人間のマインド(心)はひどく欺瞞的、ひどく狡猾だから、それはありがちだ。
シヴァが体験について沈黙を守った理由もそこにある。
彼はそれについてなにも言わない。
方法(タントラ)については語り続けるが、その結果については一貫して沈黙を守る。
だから彼にだまされるということはない。
マインド(心)はどうしても結果に執着する。方法には興味がない。その最終結果に興味がある。
もし方法を迂回して結果に到着できたらマインドは大喜びであるが、それは間違いである。
分かるかなぁ〜 分かんねぇだろうなぁ。3回読んでトラ!!
まぁ神社にでも行くべトラ!
我が輩はマガ寅!