神々のつぶやき No.37 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

我が輩はねずみであります。
ですが、以前は人間もしておりました!
我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。

今回は素晴らしき日本の八百万の神々の話ではなく、異国の神々の話です。
イエスの知られざる生涯だとさ!(その二)

その女は言った。「子供が生き返るようにと願って今戻って来たのではありません。
私は仏門に入るために戻って来たのです。子供は死んでしまいました。
私もいつの日か逝くでしょう。あらゆる人が逝くことでしょう。
決して終ることのない生へ。私を導いて下さい。」

これこそが偉大なる奇跡だ!!だが私たちはそう考えない。
もし子供が生き返っていたら、それは奇跡だったろう。

その女性は変わった。
子供の死は生への欲望を満たすために使われたのではく、放棄のために使われた。

ブッダの弟子が空腹でも、ブッダが奇跡を行い、パンを与えたりしないだろう。
その反対に彼は言うだろう。「空腹の目撃者になりなさい。空腹の超越のために
空腹を立ち退かせることができるように目撃者になりなさい。空腹はあなたではない。」と。

イエスはパンを与えなくてはならなかった。
そしてブッダは彼の追随者たちに断食をするように仕向けなくてはならなかった。
誰かにパンを与えることは実は奇跡ではない。
だが誰かに断食の準備をさせることは奇跡だ。しかし奇跡とは一体何だろうか!

私が見るにイエスがもし奇跡と言う作業に固執しなかったら
人類へもっとましな貢献をしていただろうと言っている人たちもいる。
奇跡と言う概念の想いを持って彼は愚か者たちを惹きつけた。
大衆はいわゆる奇跡と呼ばれるもののためにイエスに興味を持った。
彼は奇跡を通して彼らを助けようとしたが、それは不可能だった。
むしろその逆で、彼自身がトラブルに巻き込まれたのだった。

イエス様の事をこのように書いていいのだろうか?アーメン。少しお許し下さい!
続けます。

みんながサイババのところへ行けば彼があることをするのを見るだろう。
だがその時、ただ愚か者だけがそれに惹きつけられる。
もし私の手の中に指輪が出現したとして、それが何だというのだろう?
それが精神的現象とどう関わりがあるというのだろうか?
たとえこの家が丸ごと消え去って次に再び現れたとして・・・それがなんだと言うのだろう。
だから私は奇跡という概念には関心が無い!

イエスが永遠について終わりのない罰について話す時、革命の言語で語っている。
革命家の目は常に理想と反対の結果に向いている。
しかしブッダやマハヴィーラからは想像できない言葉だ。だがイエスは金持ちが
神の王国に入ることは針の穴を通ることより難しいと言った。金持ちは通ることができない!
これは共産主義の種、基本的種子だ。

イエスは革命家であったと言う。彼は精神性のみに関わっていたのではなく、
経済、政治・・あらゆることにも関心を持っていた。
もし彼がただの精神霊的な人間だったとしたら、磔にされなかっただろう。
だが彼は社会組織全体にとっても危険な者になったので磔にされたのだ!とも言っている。

―続くー

アア~アーメン
スゴイ話しでしたチューチューチュー

勾玉鼠小僧拝

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