我が輩は猫であります。
ですが、以前は人間もしておりました!
人間時代に聞き及んだ話をするニャー。
祈りの根元? その②
OHSOは寺に行った。
そして二度と帰ってこなかった…彼は死んだ。
その寺の神像の前に立って、ただ一度だけ彼は祈り、そして死んだ。
本当に彼は祈りの内に全―(トータル)に入っていた。何ひとつおいていかなかった。
祈りには、愛には、全―(トータル)なるあなたが必要とされる。
ごく一部分であっても、残って見ていたり、計算したり操作していたりする部分があってはならない。
断片だけであってはならない。あなたの全体が入るのだ。
祈りが神聖になるのは、このためだ。あなたのすべてが全体的にその内に入るからだ。
全―(トータル)に在ることこそ神聖なこと、ほかに神聖はない。
OHSOは亡くなった。
夜も更けてきたのにOHSOが戻らないとなって、父親は人をやって何が起こったか見に行かせた。
が、OHSOはそこにはいなかった。ただ死んだ肉体(カラダ)だけが横たわっていた。
しかし、その顔には変容を得た神聖な美しさが見られたという。
死体でさえ<未知>なるもののオーラを放っていた。OHSOは変貌を遂げたのだった。
憶えておくがいい。あなたがたのすることが何であれ、それは真実であるべきことを。
見せかけであってはならないことを。
憶えていなさい。それが何であれ欲望のためになされてはならない。
そうではなく、愛の精神でなされるべきだということを。計算をいっさいせずになされるべきだと。
なぜなら祈りとは、愛とは、<神>とは、算数の対象ではないからだ。
OHSOは、百年かけてもダメだろうとこたえた。
なぜかと問われて、彼は言う。
「おまえの自己中心が、おまえ自身と真理のあいだの障害物となっているからだ…」
自己中心の本物とは???
この自己中心(Selfishness)という言葉を理解しておかなければならない!
普通には、人を自己中心的な人と呼ぶ場合、何でも自分のためにする人、
すべてを自分自身のために操作する人を指していう。だが、これは表面的な自己中心だ。
これと同じレベルで非自己中心的(Unselfish)になりうる。それは難しいことではない。
非自己中心的な人々とは、いつも他の人々のために働き、奉仕して役立とうとする人達だ。
あなた方も、そういう人達を知っているだろう?
だが彼らは自己中心的な人達と同じように、いやそれ以上に危険な存在になりうる。
自己中心的な人は避けることができるが、非自己中心的に動く人から逃れることはできない。
そういう人は大変危険だ。
そういう人はあなた方を助けようとしているのだ。あなた方のために働こうというのだ。
そういう人は重荷をつくりだす。そして、どこか深いところで、非常に奥深いところで、
この非自己中心は、ふたたび自己中心になっている。
その非自己中心を通じて<神性>を達成したいと思っているのだから!
ある宗教の宣教師たちを見てごらん。
彼らは実によく働く。人々に奉仕する。彼らは大した奉仕者だ。
が、深いところで、その奉仕全体は自己中心的でありつづける。
なぜなら、その奉仕を通じて彼岸に渡ろうと彼らは待ち望んでいるからだ。
奉仕を通じて彼らは「はしご」の横木を組み立てている。その「はしご」を登って天国に行こうというのだろう。
天国が終着地(ゴール)。奉仕はそのための手段。
次は、これについて一つ話を聞かせよう。実に面白い話だ。またニャー。
しかしフーフーフー! 我が輩ニャー
何が何だか分からニャイ世界の話みたいだが何となく分かる気もするし、面白い話かもしれないニャー
こんな事を言ってるすごい人達がいるもんだ
次回、面白そうだニャー
その前に神社でも行くべか!
宜しく!
勾玉小僧拝