コラム 2026.02 日本人と祈り、そして伊勢神宮

暮らし・精神・建築が一つに結ばれる場所

建築を生業とする私の立場から伊勢神宮を眺めると、そこには他に類を見ない独自の思想が息づいていることに気づかされます。社殿はきわめて簡素な神明造で構成され、装飾を極力排し、素材の力と構造の美しさが際立っています。そして何より重要なのが、二十年に一度行われる「式年遷宮」です。

これは単なる建て替えではなく、建築技術や素材の扱い、さらには精神性までも含めて次の世代へ受け渡す、日本が選び続けてきた「伝承」という思想のあらわれです。古くなったものをそのまま保存するのではなく、同じかたちを新しく建て直すことで永遠性を保ち、常に若々しくという「常若」の考え方は、現代の建築やものづくりに携わる者にとっても、非常に示唆に富んでいます。
生活様式が飛躍的に変化する中で、技術伝承者や材料の減少が危惧されています。それでも日本の歴史や先人たちの心などは、決して捨て去ることはできません。未来に残さなければならないものを守り続ける。それは変えること以上に難しく、大切なことなのです。

さて、日本人にとっての「祈り」とは、強く信仰を主張する行為というより、日常の延⻑線上に静かに存在するものではないでしょうか。
朝、自然に手を合わせること。食事の前に「いただきます」と口にすること。
そこには、目に見えないものへの畏敬と感謝があり、祈りは宗教という枠組みを超えて、日本人の生き方そのものに溶け込んでいます。
日本は、神道を基層としながら、仏教や儒教、さらにはキリスト教さえも排除せず受け入れてきました。生まれたときは神社で祝われ、葬儀は仏教で営まれ、クリスマスも自然に楽しむ。
この柔軟さは「無宗教」だからではなく、異なる価値観を対立させるのではなく共存させてきた日本人の精神性の表れです。唯一絶対の価値を掲げるのではなく、調和を重んじる姿勢こそが、日本人の祈りの根底にあります。
その精神性の中心に位置するのが、伊勢神宮です。伊勢神宮は、個人的な願いを叶えるための場所というよりも、人々が日々の暮らしが続いていること、社会が保たれていることへの感謝を捧げる場所です。
「何かを求める」のではなく、「今あることに気づく」。 
伊勢神宮は、そうした祈りの原点を思い出させてくれる場所だと言えるでしょう。

伊勢神宮が世界的に知られていながら、外国人観光客が比較的少ないのも象徴的です。華やかさや分かりやすさはあまりなく、説明がなければ理解しにくいほど静かで簡素な空間です。
しかしここでは、「見る」こと以上に「身を置く」ことが大切にされます。
森の気配、玉砂利を踏みしめる音、澄んだ空気 ――― そうした体感そのものが祈りとなる場所であり、日本的な感覚を共有していなければ、その本質は伝わりにくいのかもしれません。

伊勢神宮は、外宮と内宮という二つの正宮によって成り立っています。 「外宮」には、衣・食・住を司る豊受大御神が祀られています。 働くこと、食べること、暮らすこと ――― 私たちの生活に直結した営みへの感謝を捧げる場所です。
一方、「内宮」には天照大御神が祀られ、国の安寧や社会の継続といった、個人を超えた大きな祈りが捧げられます。 現代では、賑わいのある「おかげ横丁」に近い内宮を訪れる人が多くなっています。
しかし本来、最も大切にすべきなのは、私たちの日常そのものを支える外宮です。 生活が成り立ってこそ社会があり、社会があってこそ国があります。 衣・食・住への感謝なくして、未来への祈りは成り立ちません。 だからこそ伊勢神宮では、古くから「外宮から内宮へ」と参拝する順序が守られてきました。
まず足元の暮らしに感謝し、そのうえで社会や国、未来へと心を向ける。 生活なくして理念はなく、日常の積み重ねの先にこそ大きな祈りがある ――― この順序そのものが、日本人の価値観を物語っているように思われます。

伊勢神宮とは、日本人が何を大切にし、どのように生きてきたのかを、言葉ではなく空間と時間を通して伝える場所です。
忙しさの中で立ち止まり、自分の足元を見つめ直すために、ふと静かに足を運びたくなる。
伊勢神宮は今も変わらず、日本人の祈りと暮らし、そしてものづくりの精神が確かに息づいている場所なのです。

参与  大塚 俊樹

PAGE TOP