「辰まる君のつぶやき」No.9 辰まるが聞いた見た先達からの話しを伝えよう。

<身は父母の遺体なり>

儒教の重要文献の中のひとつである「礼記」の祭儀編に「身は父母の遺体なり」との記述がある。
いうなれば「私のこの肉体は、父母が残した身体である」ということである。
日本で死者の身体に対して「死体」とは言わず或る敬意を込めて「遺体」といっている。又、犬猫のペットの葬儀を商売にしている業者でも死体といわず「遺体」と称するようになっているが、しかしそれは転用されているうちにできあがった言葉にすぎない。
「遺体」というのは元来の意味は「死んだ体」ではなく「残した言葉」という意味である。
では、だれが残したのか。当然それは死者となった先代に決まっている。
「遺体」とは先代の死者が「身体を遺す(のこす)」事であり、結果として「遺した身体」の事である。すなわち「亡き親が遺した身体」の事である。それはいま、ここに生きて在る自分である。具体的にいえば子である。
この、自分の身体は父母からいただいたものであり、それがどんな人であろうとも傷つける事なく大切に扱うのだという立場、これを「孝教」という。
これも儒教の文献のなかに記されている。
「身体髪膚(しんたいはっぷ)」これを父母に受く。
あえて毀傷(きしょう/そこなったり傷つけたりすること)せざるは孝の始めなりと。
儒教はその死生観の行きつく所に<生命の連続の自覚>を見出している。
まとめると次の通りである。
第一は、死の恐怖を乗り越えるものとして、死後に子孫が遊魂(浮遊している自分の死後の魂)を呼び戻してくれ、懐かしいこの世に帰ることが出来る。この招魂再生という祖先祭祀は<精神(魂)の永遠>という可能性を教えるものである。
第二に、己という個体は病気や老衰等によって肉体の消滅という恐怖もまた解決される。すなわち、子孫が続くことによる<肉体の(魄(はく))の永遠>という可能性を教えてくれる。遊魂と子孫と・・形はかわるけれども己の精神と肉体は永遠に(楽しいこの世)に(現在として存続し続ける)可能性がある事と、その自覚を説くのが儒教であり、そのキーワードとして(孝)があるのである。
儒教は数千年をしたたかに生きてきた。儒教は北東アジア人の心の奥底にあるものをつかみ出したからこそ、ずっと生き続けてきたのである。
現在、中国においても又、朝鮮半島においても、日本においても、この目には見えない宗教、儒教が見直されてきている。混迷な時代であればこそ、我々の数千年にわたって残した宗教の1つである。
神道、儒教、仏教、道教、ユダヤ、カトリック、ヒーンズ、イスラム教、それぞれ様々な導きを持って人類に魂、心のひろばを提供、提起した事は間違いないだろう。

いよいよこの物語も来月で最終回を迎えます。
今回は宗教の1つ儒教を取り上げ、なかなか難しい解釈もありましたが、1つの知識、知恵の勉強とも思っていただけましたら幸いです。

次回は<最後に>のテーマです。

辰まる君でした‼

PAGE TOP