<「孝」とは、生命の連続の自覚>
さて、この死の観念との結びつきは次に新しい観念を生み出す。
それは死を逆転した<生命の連続>という観念である。
それはどういうことなのであろうか。
それは祖先祭祀とは祖先の存在の確認であるという事である。
祖先がなければ自分は存在しない。自分がいるということは祖先から自分まで確実に生命が連続してきたことへの確信となる。又、自分という個体は死によってやむを得ず消滅するが、もし子孫があれば自分の生命は存在し続ける可能性がる。
いうならば祖先すなわち自分で在り、自分すなわち子孫である。
自分の生命!現代風に言えば自分の遺伝子はその後も存在しつづける可能性があるということである。
となると、現在生きている我々は自分の絆をたどっていくと百年前、いや千年、万年と一緒に生きて来たという事であり、そしてこれからも子孫を通じて生命が続いて行くならば百年後、千年、万年後も一緒に生きて行くということである。
われわれは個体ではなく一つの生命体として現在とはいいながらも実は過去をずっと一緒に生きて来たのであり、これからも一緒に生きていく運命を共通する生物なのである。しかも過去も未来も全て現在が含みこんでいる。
儒教はそれをいうのである。
すなわち<孝>とは現代言葉で言えば<生命の連続の自覚>のことなのである。言い直せば<永遠の現在の自覚>である。
ここにおいて<死>を見る眼が<生>を見る眼と一気に逆転する。
死の意識から広大な生の意識へと逆転する。これが儒教の死生観なのである。
儒教の孝!<生命の連続の自覚>を主張する儒教はこういっている。
子は親のコピーであると!
本年1月から始まったこの話もあと2回となりました。
むずかしい面もありますが、なかなか人間として考えさせられる内容もたくさんあります。
神道観、仏教観、儒教観、等々宗教観の捉え方は様々です。
ただ様々ですが知っておく事も大事な社会勉強ですね。
次回は<身は父母の遺体なり>
辰まる君でした‼