我が輩は鼠であります。
ですが、以前は人間もしておりました!
我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
【人間と神々との交通ルール!一方通行ではなかったチュー】
その出会いは常に両者の間のどこかで起こる一方通行ではない。
探求者(自分)だけが神へと向かい始めているわけではない。
探求者が向かい始めた瞬間、神も向かい始めているという。
それは同時に起こる。
実のところそれは一連の作用であり、二つの極性をもつ。
探求者(自分)と探求される者(神という何か)
それは一つの現象であると言う。
だが自分が上昇し始めぬ限り神(何かが)は降りてくることはできない。
人間はあたかも現世の生が全てであるかの様に生き続ける。
高みのことなど預かり知らずに生き続ける。
途方もない可能性が開かれているとも知らず・・
人間はそれなりに可能性を秘めて生まれて来る。
いかなる人もその実存の究極の高みは神(何かがいる)と会う事ができる。
人間だけが神(何かが)を探し求めている訳ではない。
神(何かが)もまた人間を探している。
もしそれが一方通行からだけの出来事だったら、
それほどまで一大事、大変なことではないだろう。
人間と神々との交通規則に一方通行は無い。
それは神(何かが)を想い続け、祈った結果、
神も全く同じタイミングで人間と交差する点にたどり着く。
そして合体、何かが生まれる。あなたは変わって行く。
もしあなたがそれに気が付かないでいるとしたら、それは全てあなたの責任である。
真剣に祈り始め、真剣に上昇を始めてみると同時に
何かが降り始め、あなたと合う事になる。
しかしあなたが扉を閉じ続けていると外に太陽が出ていようとも、
暗闇の中で生きることになるだろう。
又、たとえ扉が開いていて太陽が出ていたとしても、目を閉じていれば真剣に祈りもせず
上昇的に行動すらしないあなたは、依然として暗闇の中で生きていることになるだろう。
神においても同じ事が言える。
神のエネルギーはいつもそこにあり、近くにあり、神も閉じていては人との合体は実現しない。
人間と神との出会いが実現衝突すると、全体と調和し
全体(人生)とともに鼓動することができるようになる。
そしてその時、大いなる恩寵があなたへ降り注ぐ!
と言っている人間と我がチューは会った事があり今回はそのまま伝えます。
あぁ~
人間と神様の間には交通ルールがあったのだね!
私しゃ鼠チャンでよかった!
でも我が輩はいつも猫に追われて一方通行チュー!
勾玉鼠小僧拝