神々のつぶやき No.61 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

OSHOが語る! <行い!説くこと!>現代人の二つの顔とは!

それは行うことのできないことを行い!説くことのできないことを説くことである。

この一日の身命は尊ぶべき身命であり、尊ぶべき形骸である。
それゆえたとえ一日でもあなたの目的を本当に会得することができれば、
その一日といえども無駄にするべきではない。

この一日はどんなにすばらしい宝石も及ばないほどに貴重な宝である・・・
古の賢人たちは一日を身命よりも大切にしたのである。静かに思うべきである。

龍玉や巨玉はたとえ失っても再び手に入れることができよう。
しかし一生の百年のうちの一日はひとたび失えば二度と戻ることはない。
どれほど巧みな手段を用いても過ぎ去った一日を取り戻すことはできない。
明日を期待することなく毎瞬この日この時のみを思うべきである。
明日は難く定かではなく知ることが難しいがゆえに・・・
この日この時のみがあると思い定め時を浪費することなく人間修行に打ち込まなければならない!
そうしたあとは本当に容易になる。
行いは説くことに通じており、説くことは行いに通じている。

OSHOはあることがおこり弟子に説明するために彼はあるテクニックを開発した。
彼は顔の半分で笑うと同時に顔のもう片方で悲しむことができた。
それは非常に難しい。彼がどのようにしてそれをやってのけたのかは、マが寅君は知らない。

しかし彼はトルキスタンにある非常に古い部族とともに生活していたことがあった。
そこは旧ソビエト連邦の中でも非常は後進地域で、そこでは人々はいまだに考えうるかぎり原始的である。
父親が早く死んだので彼は初めにある部落でそれからまた別の部落で生活しなければならなかった。
彼はたった9歳だったが学び始めた。

それというよりも、これら部族の人々は特殊な智恵を持ち音楽文化を持ち魔術を行い、
人々を癒やす芸をも持っていた。
彼らは遊牧民、彼らには家も定住地もない。
彼らは旅することを楽しむ。彼らは放浪者たちだ。

しかしOSHOはこれを彼らの芸当の全てを学ぶ絶好の機会に変えた。
彼らの芸当の1つは自分たちの顔を2つに使い分けることができたことだ。
誰かが右側に坐っていて誰かが左側に坐っている。と片一方の顔は非常に怒っているように見え、
他方の顔は愛情に溢れ非常に穏やかだという。

他方が言う。
「穏やかだって?彼は非常に危険で獰猛で残忍に見える。
彼は私を何ヶ月も忘れられそうにないような目で見た。」

そのように報告されたとき、
“これがおまえたち(弟子)に理解して欲しいことなのである”
現代人は多くの顔を持っているということを!!

何となく分かるかなぁ~
ああ、おもしろかったトラ!神社にでも行くべかトラ!

我が輩はマガ寅!

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