私は、古地図を読み解く仕事に携わっています。
旧街道や水路、赤道がどこを通り、どのくらいの幅で、そして今もなお生きているのかを確かめる仕事です。
こうした作業を日々続けていますと、自然と歴史も調べることになります。 調べていくうちに、「この道路は国有地として、今も生きている道なのだ」と気づかされることも 日常茶飯事です。
私の住む名古屋には、三種の神器の一つ「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」をご神体として祀ってある熱田神宮があります。 人々がまだ歩いて旅をしていた頃、熱田神宮から伊勢神宮への参拝は大変な大旅でした。 たとえば関東からであれば、まず陸路で愛知県の熱田神宮まで向かい、そこから船で三重県桑名へ渡り、さらに陸路で伊勢神宮を目指しました。 名古屋の中心部には街道がありませんが、それは、もともと海であったからです。現在の名古屋駅周辺も、かつては海でした。
話を今から二千年ほど前に遡ります。 伊勢神宮にお鎮まりの天照大神様は、伊勢へお遷りになる前、奈良県桜井市の三輪山の麓にお祀りされていました。
紀元前四年、大和の時代、現在の奈良県には皇居が置かれていました。 その後、奈良県桜井市から琵琶湖の近くまで旅をされ(奈良県〜滋賀県〜岐阜県〜三重県)、南下して現在の伊勢の地にお鎮まりになったと伝えられています。 このご遷宮の巡行に直接関与するのかは不明ですが、愛知県北⻄部には今でも伊勢ゆかりの地名が見られます。 そのおよそ五百年後、⻄暦478年には、現在の外宮に豊受大神様がお祀りされました。
ここからは、少しスケールの小さな話になります。 養老元年(717年)、ある三氏族が天皇の命を受け、三千五百人の兵を率いて奈良から愛知県北⻄部へ移住したと伝えられています。 当時、名古屋の大部分は海であり、愛知県北⻄部には島々が点在していました。 また、三重県桑名より北東一帯は蝦夷の地であったとも言われます(定かではありません)。 奈良に都があった頃、愛知県北⻄部は蝦夷に対する前線基地のような役割を担っていたのかもしれません。
時代は下りますが、織田信⻑が本拠とした清州も、名古屋の北⻄部に位置し、「州」という地名が示すようにかつては島であったと考えられます。
やがて都は京都へ移り、戦国時代となり、愛知の地では織田信⻑、豊臣秀吉、徳川家康が活躍しました。
この頃、愛知県は合戦の舞台ともなりました。 海が広がり街道が乏しかった名古屋周辺では、戦の際には地の利を得た武将たちにとって、戦いやすい土地であったとも考えられます。 その結果、平和な時代が訪れるまで、名古屋のあたりには街道が少ない状態が続きました。
話を現代に戻します。 東海道新幹線で愛知県に入ると、急に明るさが増し、トンネルが減って濃尾平野が大きく広がっていきます。そこには、かつて海であった名残が感じられます。 伊勢参りに向かわれる際、多くの方が名古屋駅を通過されることでしょう。 かつて人々が海路で渡った道筋は、今では鉄道の乗り換えというかたちで受け継がれているのです。
さて、奈良から移住してきた三氏族は、何のために愛知県へ来たのか。 戦国の世を生き延び、平和な時代を迎えたとき、自らが何を守ろうとしていたのか、その記憶はすでに薄れてしまっているのかもしれません。 それでも、世の安寧を願い、そのためにこの地へ移り住んできたのだろうと思わずにはいられません。
伊勢神宮のお手伝いをさせていただくお話をいただいたとき、思い浮かんだのは、二千年にわたり日本人の祈りの場であり続けてきた伊勢神宮のことでした。 かつて人々は、海路をも越えて伊勢参りに向かいました。 その思いに少しでも寄り添いながら、伊勢神宮のお手伝いができることへの感謝の念が湧いてまいります。
天照大神様の御旅において、もし倭姫命が滋賀県や岐阜県の地に留まっておられたなら、神宮は合戦の影響を大きく受けていたかもしれません。 そうはならず、世の安寧を祈るのにふさわしい三重県の地にたどり着かれました。 そこには、先人たちの想いが静かに息づいているように感じられます。 その想いに導かれるように毎年春と秋にお伊勢参りの方々をお募りし、共に参拝を続けています。
理事 安部 敏朗