「辰まる君のつぶやき」No.7 辰まるが聞いた見た先達からの話しを伝えよう。

では誰が呼び戻し、又自分を思い出してくれるのか‼

友人、知人も思い出してくれるではあろうが、やはり切実に思い出してくれるのは血のつながった親族であり、家族である。
儒教はもちろんこの常識に従う。招魂再生すなわち、祖先祭祀を行うのは(子孫である)と。
となれば子孫を持つことが重要な意味を持つことになる。子孫とは自分の子供であり孫である。ただし、儒教が言おうとしているのは、なにがなんでも自分の子供でなくてはならないというような狭い考えではない。
一族に子孫があればそれでよいのである。
なるほど自分の子供には愛情が濃いであろう。しかし己の子供のみならず甥や姪という一族に対しても愛情を持つべき事を儒教は言うのである。
この徹底から中国、朝鮮民族では養子も同じ姓である一族から選ぶ。この点は違う姓から養子をもらい改姓して同姓となる日本とはおおいに異なる。
この様な儒教的な血の繋がりを重視し今も固く守っているのは朝鮮民族である。
さて、子孫というより子孫も含めた一族が祖先の祭祀を行うわけであるが、祖先は過去であり、子孫は未来である。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、現在は現実の親子によって表される。親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点である。
そこで儒教は
(一)祖先祭祀をすること
(二)現実の家庭において子が親を愛し、かつ敬うこと
(三)子孫一族が続くこと
この三者を併せて(孝)と表現したのである。
ただ、孝というとたいていは親への絶対的な服従・道徳といった理解をしているが、それは孝の不十分な理解である。儒教はそのような狭義なことは言っていない。それをはるかに超えたものなのである。
死の恐怖に対して儒教は死後の慰霊を教えたのであり、招魂再生ということによって、なつかしいこの世に再び帰り来たることができる。
そいいう死生観と結びついて生まれてきたのが孝なのである。
道徳的(孝)から宗教的(孝)への頭の切り替えができなければ儒教は理解できない。
この宗教的(孝)こそ儒教の本質だからである。

ああ、よかった!よかった!又、又、頭が軽くなったね!
続く・・
次回は
生命の連続の自覚とは! スバラシー

辰まる君でした‼

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