コラムまがたま語呂語呂

神々のつぶやき No.45 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2021/05/01

我が輩はモゥーモゥーの牛である。
以前は人間もしておりました!
我がモゥーモゥーと人間の間で見た聞いた話をするモ~。

さぁ~ 新緑の季節、春本番の5月!
馬より早く牛も走り!鳥より高く牛も舞い上がる!
ウッシッシ!の日々は続く。

ある祈りの意について。その③

タンセンの師は流浪のファキール(行者)で名前はハリダスという。
タンセンは人をやって師がどこにいるかを調べさせた。すると、
ジャムナ河のほとりの小屋にいることがわかり、
アクバル帝を伴ってその歌を聴かんものと出かけて行った。

付近の村人たちの話では、「真夜中過ぎ、三時頃になると時折歌ったり踊ったりなさいます。
それ以外は、日がな一日静かに坐っているだけです。」というわけで、
2人は夜中にまるで盗人のような格好で小屋の後ろに隠れて待った。
なぜなら、もしそこにいることを知れたら彼は歌わないかもしれないからだ。
          
しかし、ハリダスは歌い始めた。踊り始めたのだ!
アクバル帝は催眠術にかけられた様になった。声ひとつ出せなかった。
どんな讃辞も無意味な気がした。彼はただ涙を流すだけだった。
歌が止み、帰路につくときになっても、アクバル帝は何も言えなかった。
涙が絶えず頬を流れ落ちる・・・・

宮殿に戻り、廷内に入ろうとするとき、はじめてアクバル帝はタンセンに言った。
「わたしはおまえに勝る者はこの世にいないと思っていた。おまえこそ唯一独特と考えていた。
だが今ではおまえはその師と比べたら無に等しいと言わねばなるまい。
この違いはいったいどうしたことだろう?」
        
タンセンは言った。「違いは簡単です。私は何かを得るために歌い奏でます。
力を、威信を、金を、賞賛を得るために。私の音楽はまだ目的のための手段なのです。
私は何かを得るために歌う。
が、私の師は何かを得ているから歌うのです。それこそ2人の違いです。」

「師は自分の内側に何かが在る時だけしか歌いません。
そういう時には歌が流れ出で、踊りが起こるのです。
歌も踊りも副産物のようなもの。彼が神性に満たされ、
もうそれを抱えきれなくなって満ちあふれる時、
その時だけ歌うのです。師の歌はそれ自身で完結している。
彼は祝福するのです!」
        
そしてそれこそ、真の愛と偽りの愛の間にある違いだ。
真の祈りの人は数えることなどしない。
それは全くバカげている。祈りの一瞬はそれほどに豊潤であり・・・・あなたはもうそこにいない。

それは、あなたを完全に満たし尽くし溢れ流れ出す。
もしあなたがたに一瞬でも祈り、愛、瞑想の時が得られたら、あなたがたはいつまでもいつまでも
感謝の念を覚え続けるだろう。不平をこぼすことはないだろう。
正に祈りの「意」の1つの物語である。

  モゥー タイへ~ン!
  何が何んだか分かるかなぁ~モシモシ!
  祈りは重要だモゥー
  頭クラクラ!神社でも行くべかナー!
  モウ オシマイ。

                                       勾玉牛拝

                                             

神々のつぶやき No.44 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2021/04/01

我が輩はモゥーモゥーの牛である。
以前は人間もしておりました!
我がモゥーモゥーと人間の間で見た聞いた話をするモ~。
 
さぁ~ 春だモゥー ようやくやって来たモゥー
しかし今回の話も聞いた話だが大変本格的な話だなぁ~モシ。我がモゥーにはムズカシイー!

ある祈りの意について。その②
こんな悟りもあるモゥー。

<生命>はつねに現金払いだ。約束手形ではない。約束はしない。
<生>はキャッシュ、現金だ。即座に在るものだ。
今ここで<生>はあなたがたに与えられるすべてを与えている。
ハッピーで嬉しい気分の時、あなたは歌い出す。踊り出す。
それをあなたは数えるかね?日記につけるかね?

「・・・30年の間踊ったり歌ったりしてきたが、いまだ神の会得が起こらない」
それならあなたは踊ったことはない。あなたは踊る人ではない。
踊る技術は持ち合わせているかもしれないが踊る人ではない。
歌い方は知っているかも知れないが歌う人では全くない。
これがテクニシャンと踊る人との違いだ。
踊る人は踊る!そしてその瞬間、全てが達成される。その瞬間踊る人は失われるからだ。
エゴが死に、踊る人がいなくなる。踊りは在る。が、その中心はない。
その踊りは無限の海の1つの波だ。寄せてはかえしつつ存在し、かつ溶け消える。
テクニシャンが踊るとき、つまり訓練された踊り手が踊るときには操作がある。
それがいかに完璧であってもその踊りは死んでいる。なぜならそこに操作する人がいるからだ。
彼は計算している。どのくらい・・・・・と。

皆さんに話したいある美しい話がある。
これはインドの偉大なるミュージシャンだったタンセンという人物の生涯に起こった事だ。
タンセンはある日、宮廷の王様から言われた事があった!
「おまえに勝る者がいるなどとは想像もつかない。おまえは決定的な存在のようだ。しかしそう思うたび
私の頭に浮かんでくる考えは、おまえだって誰かの弟子として学んだのに違いあるまいということだ。
その師がお前に勝るかもしれないではないか?お前の師は誰だ?まだ生きているのか?
もしも生きているならこの宮廷に招こうではないか!」

タンセンは言った。「我が師は生きております。しかし宮廷に招くことはできますまい。
あの方は野生の動物のようなもの。宮廷に招き入れることはできません。
流れるがままに、ものごとが起こるがままに、あの方は動きます。社会人ではないのです。
風のような雲のような・・・あの方はこの世に根を下ろさぬ放浪者です。
それにあなた(王様)といえども、あの方に歌い踊ることを求めることはできません。
それは不可能です。あの方は歌を感じる時に歌い、踊りを感じる時に踊るのです。
ですから王様が彼の許に行って待ってみるほかありません!」と。

王様はこの話にすっかり魅了された。王様はタンセンを傾倒していたので
「このタンセンの師が生きているとは!どんなことをしても出かける価値がある。」と思った。
そして「その師がどこにいようとも私(王様)は行ってみよう!」と言った。

  その③に続くモゥー


  一体この文書は何だ!
  ワシャー!モゥーモゥーの牛である。
  モゥー!近所の神社でも行くべか!
  デモ オモシロイ話だギュー!

                                      勾玉牛拝
                                       
                                    

神々のつぶやき No.43 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2021/03/01

我が輩はモゥーモゥーの牛である。
以前は人間もしておりました!
我がモゥーモゥーと人間の間で見た聞いた話をするモ~。
 
やれやれ、ようやく春のはじめに到着かなモシ。
そうだ!祈りに行こう。
今日のテーマは「意」のりはいろいろあるな~モゥー。


ある祈りの意について。その①

一人の男が牛である私の許へやって来て
「三十年も精進し祈ってきたが未だ神を理解するに至らない」と言った。
初めの初めっからこの男は間違った姿勢をしているね。
この男は非常に計算高いずる賢い人間だったに違いない。
そうでなければ愛と祈りの瞬間をどうして数えていられよう?
「私は三十年も祈ってきた・・・」

この計算が示しているのはビジネス精神だ。三十年だって?
よく数えていたものだ!この男はこの俗世の人間、欲深くって計算高いこの世界の人間だったに違いない。
脱俗した世界に移っていったのだが、その姿勢は同じで変わらなかった。

「私はこれこれ何日のあいだ断食をした。何回祈った。それなのに何も起こらないなんて?」
実のところ、もし祈りとは何かを知っていたら結果などどうでもいいはずだ。祈りそのものが結果だ。
その価値はすでに祈りそのものの内にある。祈る・・・・と、それだけで充分だ!
祈りは幸福、祈りは歓喜だ。
祈ること自体ですでに充たされる。他に何もいらない。

ところが、あなたがたは祈っていない時には祈りの結果を待ち焦がれる・・・人もいる!
そうなったら祈りは目的のための手段になる。が、祈りはけっして目的のための手段にはなりえない。
祈りはそれ自体で完結している。

すべての美しいもの、愛、祈り、瞑想、これらはすべてそれ自体で完結する。
他のもののための手段には大事な点を見逃すことになる。それらはただ楽しむだけでいい。
それはちょうど朝、散歩に行くのと同じだ。陽が昇り新しい一日が生まれる。再び生命が復活する。
夜の暗闇のなかからすべてがよみがえる。木々は目覚め、鳥たちは活気づき、
香ぐわしい新鮮なそよ風が吹きわたる・・・。
あなたは朝の散歩をただ楽しむ。それとも日記にこう書くかね?
「・・・・。私は三十年のあいだ毎朝散歩したがまだ何も起こっていない。」

朝の散歩は朝の散歩。それ自体で完結する。その目的はそれ自体の内にすでに備わっている。
あなたは散歩を楽しんだのだ。
毎朝のその散歩によって豊かになったのだ。その散歩によって将来いつか豊かになるというのではない。
まさに今、あなたを豊かにするのである。

 いやはや!またまた大変な話だったなぁ~モゥー。
 一体「意」のりと祈りはモゥー。よく分からないね。次回を待つべか!
  ああ本日は神社でも行って牛丼でも食べっかな!モゥー。
  つづく


                                      勾玉牛拝

                                          

神々のつぶやき No.42 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2021/02/01

我が輩はモゥーモゥーの牛である。
以前は人間もしておりました!
我がモゥーモゥーと人間の間で見た聞いた話をするモ~。
 
正月も終わり、早や2月じゃモゥ~。
今年は新型コロナでモゥ!モゥ!大変な正月だったなぁモシ。
我が輩が牛だった頃に聞いた話じゃがいくつか面白かったりフ~ンと考えたり、
まぁ~印象に残った事を述べようなモシ!

一、真理に興味を持つようになる探求者には二種類あると言う。
  ある人は経典を探し始めるらしい。
  その者は大した知識人になり、偉人?物知り博士になるかも知れないが、内側は暗闇のままである。
  なぜなら彼の得た知識、光はすべて借り物だ!と言う。
  借り物の光は人生の危機の役には立たないとも言っている。
       
  ある話:私はキリストの「誰かがあなたの頬をぶつなら、もう片方も差し出しなさい。」という
  言葉を経典から学び、説教のたびに繰り返していたある神父のことを思い出した。
  みんなが彼の説教を気に入っていた。そういう類いの偉大な言葉を経典から引用していたからだ。

  ところが、ある日曜日、一人の男が実際に立ち上がって神父の頬をひっぱたいた。
  神父はショックを受けた。ちょうどイエスを引用していたところだったからだ。
  しかしなんとか面目を保つために彼はもう一方の頬を差し出した。みんなこの状況を見ている!
  するとその男は本当に反逆的なタイプだったに違いない。彼は他の頬もひっぱたいた。
  音よくパーン!!とやった!
  さあ、これはあんまりだった!
  神父はその男に飛びかかって彼を殴り始めた!
  するとその男は言った。「何をするんですか!」
  神父は答えた。「聖書(経典)が言っているのは二番目の頬までだ。
  その次は俺とおまえとで決着をつかようじゃないか。」
  借り物の経典は現実に出くわした時には役に立たないらしい。
  人生には日々直面すべき現実がある。
  死に際しては、究極の現実に直面しなければならない。
  借り物の知識は全く何の役にも立たない!

一、二番目のタイプの探求者は経典、聖典等には向かわないで師(マスター)を探し始める。
  これらは二つの異なった次元でもある。
  一方は知識を求め、他方はまだ生きている生の声、源泉を探し求めている。
  一方は死んだ経典を探し求め、他方はそのハート(心)がいまも脈打ち踊り、
  その目の中にまだ深さを見ることができ、人が自分自身の潜在的可能性を見いだすことが
  出来るような生きた経典、聖典を探し求める。
  二番目のタイプこそが真正な真理の探究者であると言う。一番目のタイプは果たしてどうかな?

  こんな話も聞いたなぁ~モシ。
  教師は何も知らないがゆえに、自信に満ちて話す事ができる。
  師は沈黙したままでいるか、話すときには非常な責任を持って話す。
  なぜか!それは自分が表明することは矛盾してはいないが矛盾しているように見える!
  ということを知っているからだ。しかし、すべての教師は師であると思われたい。
  探求者にとってはこれが問題となるらしい!

      まぁまぁ~いろいろな話もありますモゥー
      こんな調子で今年も宜しくモゥーモゥーモゥー
      あ、牛丼思い出した!

                                         勾玉牛拝

                                           

神々のつぶやき No.41 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2021/01/01

       我が輩はモゥーモゥーの牛である。
       以前は人間もしておりました!
       我がモゥーモゥーと人間の間で見た聞いた話をするモ~。
 
       新年こんにちは。
       私は丑(ウシ)である。
       今年は2021年、令和3年、辛丑(かのとうし)と言います。

       暦の予備知識を少しモ~す。
       干支(かんし)~干支は十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)の
       組み合わせによって作られているモゥ~ン。

       十干は、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・
       己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)の十通りから成ります。

       十二支は、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・
       未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)の十二通りです。

       この十種の十干と十二種の十二支が相互に組み合わされて六十干支が成り立っていて、
       この六十干支の事を一般に「えと」と呼びます。

       本年、還暦を迎えた方々は1961年(昭和36年)生まれです。
       星座は三碧木星。

       <九星>
       九星は、一白(いっぱく)・二黒(じこく)・三碧(さんぺき)・四緑(しろく)・五黄(ごおう)・
       六白(ろっぱく)・七赤(しちせき)・八白(はっぱく)・九紫(きゅうし)の九つの星から成り立ちます。
       九星は九星術に基づいて占いますが、これは大変難しく複雑ですので説明はしません。

       1961年(昭和36年)生まれの還暦の方が今年一年相性が良い人達は、
       (平成2年、昭和56年、昭和47年、昭和38年、昭和29年、昭和20年、昭和11年)生まれの方々です。
       では、相性が悪い人達は・・・・書くのは止めます。

       では、令和3年、西暦2021年、辛丑の年はいかに。

       全体的一年
       丑は午(うま)と違ってゆっくりと歩く。
       歩くリズムは穏やかに動き、急発進は禁物。すなわち目的の変更、己の志、生活基準、
       方針の行く末、等々、変換はなるべく行わないように意識することが大事な年回りです。
       何かうまい事や新しい話には乗らず、しっかりと粛々と足下を強く踏みしめ一年を歩く事が無難です。

       西暦1961年、昭和36年生まれ、辛丑、六十歳、還暦の方々へ。
       九星は三碧木星(さんぺきもくせい)
       全てにおいて冷静さが全ての難を避ける。
        一、金銭経理はしっかりとやる。
        一、何事にも慢心しない事。
        一、言葉のトラブルに注意。
        一、食事に対する考えを見直す時期。

       六十歳。
       第二の人生、人によっては第三の人生のスタートです。
       人間関係、最後の構築をスタートする年。
       まだまだ先は長い道のりです。
       なるべく軽い荷物を背負い、重い荷物は1つ1つ降ろして行きましょう。
       良き1年になります。
       人生100年、還暦60年。よくぞ生きて来ました。
       二廻り目は一度通った道になります。
       迷わず暗い道に入らず、二度失敗しない様に心がけましょう。

       天国抽選!地獄繁盛!勾玉満腹!
       モゥーモゥーモゥー 


                                               勾玉牛拝
                                                  

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