コラムまがたま語呂語呂

神々のつぶやき No.35 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2020/07/01

      我が輩はねずみであります。
      ですが、以前は人間もしておりました!
      我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
 
      “修行と師匠と悟りの極意だとさ!” その2
      我が輩が鼠小僧寿し太郎時代に聞き及んだ話であります。では行くべか〜!

      しかし師は言った!
      「それでもおまえは3、4日そこにいた。何も見るものはなかったとしても、見ていたはずだ。お前は何をしていた?」

      そこで彼は言った。
      「見ていましたとも!・・・夜になると番人は調理器具や鍋を拭き、すべてを並べました。
      そして朝になるとまた拭いていました。」

      師は言った!
      「それだ!それが教えだ!そのために、おまえは送られたのだ!夜になると彼は鍋を拭き、朝になると再び綺麗な鍋を拭いた。
      その意味は何か?それは、たとえ夜に何事も起こらなかったとしても、鍋はまた汚れ、再び埃がつくからだ。
      おまえは純粋かもしれない・・・今のところ・・・おまえは無垢かもしれない。
      しかし、あらゆる瞬間に清めつづけないといけない。何もしなくても時が過ぎるだけで、おまえは純粋でなくなる。
      一瞬一瞬、時の経過・・・何もせず木の下でただ座っているだけで、おまえは汚れていく。
      そしてその汚れは悪いことや間違ったことをしているせいではなく、ただ時の経過によって生じるものだ。
      埃は積もる。だから拭きつづけることだ。そして、これが最後の仕上げになる。
      おまえは自分が純粋であることを鼻にかけるようになった。そして今のところ常に清める努力をすることに気づいていない。
      わしはそう感じたのだよ」

      一瞬ごとに人の心は変わり動き再び再生する。
      ただ得た修行、人生に終止符は無く、ただひたすら磨き続ける事が己の宝であり、最大の師でもあるのだよ!
      終わり

               ギャーギャー!我がチューは目が開いたチュー!
               ニャンニャンには捕らないヒントを得たチュー!
               いい話しだったなぁ~

                                                    勾玉鼠小僧拝
                                                  

神々のつぶやき No.34 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2020/06/01

      我が輩はねずみであります。
      ですが、以前は人間もしておりました!
      我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
 
      “修行と師匠と悟りの極意だとさ!” その1
      我が輩が鼠小僧寿し太郎時代に聞き及んだ話であります。では行くべか〜!
      
      寿し太郎君は修業時代、禅の師匠を探していた。
      彼は何年も師と共に暮らしていたが、ある時、師は言った。
      「寿し太郎はほぼ成就した。すべては申し分ない。」
      しかし師は「ほぼ」と言った。

      そこで寿し太郎君は言った。「どういう意味でしょうか?」
      師は言った「何日かお前を別の師のもとへやらねばならん。それが最後の仕上げになるだろう。」と。
      寿し太郎の胸は高鳴った。彼は言った。「すぐに行かせてください!」

      書状が彼に渡された。彼はいたく興奮し、自分の師よりも偉大な師のもとへ送られるのだと思った。
      しかしその人物のもとに到着すると、彼は何者でもなく・・宿屋の番人、宿屋の門番だった。
      彼はひどくがっかりして思った。「これは何かの冗談に違いない。この人が私の最後の師になるだって?
      彼が最後の仕上げをしてくれるだって?」しかし彼は来てしまった。
      「何日かここに留まるほうがいいだろう。少なくとも休息にはなる。それから戻ろう。長旅だったことだし。」

      そして番人に言った。「私の師がこの書状をよこしたのだが。」
      番人は言った。「あいにく私は字が読めないもので。書状はお取り置きください。それは必要ございません。」
      と言われてしまった。

      「あなたさまは、こちらにお泊まりいただけます。」
      寿し太郎は言った。「しかし、私はあなたから何かを学ぶために送られてきたのだ。」
      番人は言った。「私はただの番人です。師匠でも教師でもございません。何か勘違いがあるに違いない。
      あなたは間違った者のところにいらっしゃったのでしょう。私はただの番人です。教えることはできません。
      私は何も知らないのです。ですがせっかくおいでになったことですし、ただ私のことを見ておられるのもいいでしょう。
      助けになるかもしれません。お休みになってご覧ください。」

      しかし、見るようなものなど何もなかった。
      朝方、寿し太郎は宿屋の扉を開けた。すると客が訪れ、番人は客用の物―鍋、調理道具、ありとあらゆるものを拭いた。
      彼はかいがいしく働いた。そして夜になって誰もが去り、客が床につくと、彼は再び客用の物を拭いた。
      鍋、調理道具、ありとあらゆるものを。

      そして朝になると再び同じことを繰り返した。
      三日経つと、寿し太郎は退屈してしまった。そして言った。
      「見るものなど何もない。あなたはずっと調理道具を拭き、ありふれた仕事をつづけている。私は出て行きます。」
      番人は笑ったが、何も言わなかった。

      寿し太郎は戻った。彼は憤慨して師に言った。
      「なぜです?なぜ私はこんな長旅に出されたのか?うんざりしました。その人物は宿屋の番人だったのです。
      彼は私に何も教えてくれず、ただ“ご覧なさい”といいました。でも見るようなものなど何もありませんでした。」
      しかし、師は言った!

               サァー どうなるかチュー
               その2 次回に続くチュー

                                                勾玉鼠小僧拝

                                             

神々のつぶやき No.33 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2020/05/01

我が輩は鼠であります。
ですが、以前は人間もしておりました!
我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
 
【神が好み愛したある物語だとさ!】

遠い昔、彼は小さな村の神官(神職)だった。
村で問題が起こったり、病人が出たり、災難が起こったりするたびに、彼は森へ出かけた。
彼はとある木の下の、とある場所へ行き、そこで儀式を行い、神に祈った。
すると必ず災難は村から去り、病は村から消え、問題は解消するのだった。

やがて彼は死んだ。彼の後継者(神官)がやって来た。
しばらくすると再び問題が起こった。村は困っていた。何らかの災難が起こり、
村人たちは後継者である新しい神官に森へ行って神に祈るように頼んだ。

新しい神官はとても動揺した。彼はその場所、正確な木の場所を知らなかったからだ。
彼はよくわからぬまま、それでもどれかの木の下へ向かった。
彼は火をおこし儀式を行って祈り、神に言った。
「ご覧下さい。私は前の神官がよく訪れていた正確な場所を知りません。
でもあなた(神)は全能でどこにでも存在していらっしゃる。ですからご存じでしょう。
正確な場所は私ではよく分かりません。しかし私の村は困っています。
どうかお聞き届けていただき、ご加護を賜りますように。」

災難は去った。
その後、二代目の神官も亡くなり、三代目の後継者ができ、再び問題が起こった。
村はある危機に陥り、村人がやってきた。
彼は儀式の起こし方を知らなかったが、ともかく火をおこし神に言った。
「お聞き下さい。私は儀式の火のおこし方を知りませんし、正確な場所も知りません。
それにどのような祈りをすればよいのかもよくわかりません!
でも!あなた(神)は全知でいらっしゃるから、すでにご存じでしょう!
私が知る必要はありません。ですからどうぞ必要なことを賜りますように。」

そして彼が戻ると村は危機を脱していた。
その後、彼も世を去った。彼の後継者は・・・村は再び困難に陥り、村人たちがやって来た。
彼は肘掛け椅子に座っていた。彼は言った。
「私はどこへも行く気がしません。お聞き下さい!あなた(神)はいたるところにいらっしゃる。
私はどのような祈りをしてよいやら知らないし、儀式も知りません。
でも、そんなことは構わないのです。私の知識は重要ではありません。
あなた(神)はすべてをご存じです。祈って何の役に立つでしょう?
儀式や定められた聖域が何の役に立つでしょう?私は後継者たちの物語を知るだけです。
その物語をお話しします。これは遠い時代に起こったことです。そして後継者に、そのまた後継者に。
これがその物語です。さあ、神は正しいことを行ってください。それで充分です。」

そして災難は消え去った!
神はその物語をたいそう愛したと伝えられている。

遠い昔から人々は自分たちの物語を愛し、自分たちの神を愛した。有神論は物語のようなものであり、
無神論は物語に対立するものかも知れないが、何人となく仏陀の内的な観照と
アインシュタインのマインドの構造を二重、三重に重ね合わせたような物語である。

何となく分かる気もするチュー!
OSHOはスゴイチュー チュー チュー 

                                        勾玉鼠小僧拝

                                           

神々のつぶやき No.32 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2020/04/01

            我が輩は鼠であります。
            ですが、以前は人間もしておりました!
            我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
 
           【何んとなく今回はスゴイメッセージでチュー!】

            今回のメッセージの本質は、恐怖から生きてはならないという事である!
            罰せられる事などありえないのだから大胆に生きる事だ!と言う。
            恐怖は知らぬ間に忍び寄ってきてはあなたが開放的になっていくのを阻もうとする。
            たった一つの事をやるにも!
            それは正しいのだろうか、間違っているのだろうか!
            道徳的だろうか?非道徳的だろうか?
            宗教に即しているだろうか?いないだろうか?それに反対しているだろうか・・・?
            そして熟考すればするほど、あなたは益々混乱していくだろう。
            いったん物事に罪を与える方向へと向かい始めたら、
            元気に生きて行くことなどできず、ただダラダラと足を引きずって歩くだろう!

            私のアプローチは全く違っている。
            間違いがあってもそこにはどんな罪もない!
            ただ一つのことを覚えておいて欲しい。
            それは、同じ間違いを何度も何度も起こさないということである。
            一回、又もう一回位は間違いがあったり犯すこともあるだろうが・・・
            しかし何度もではどうみてもそれは愚かしいです!!!

            人間は生きるを探求していくべきでも有る。
            そして探求していると、時には道を迷うこともあるが、
            道に迷うことをあまり恐れていては探求など不可能でもある。

            そうなると生きるという冒険全てが打ち砕かれ破壊され葬られる。
            そしてそれこそ、いわゆるいい加減な宗教的な人間が行ってきた事かも知れない。
            その者たちは古代から伝わる神社、仏閣のメッセージから離れ、
            少しずつ違和感、異次元的、間違ったメッセージを20世紀に与えてしまった様だ。

            今、本来の人間の根本に宿るメッセージは、生きる喜びと味わいを与える事に
            冒険する大勇気、大胆に進み、生のもたらしてくれるあらゆる可能性を
            切り開いていく勇気を与える事に、あなたが恐れる事なく成長し、
            オープンにそして感じやすくなるようにすることにかかっていると思います。

            神が仏が私たちの裁判長だろうと恐れる事はない!
            いずれ最後の審判の日がやってきて神、仏に出会ったならこう言ってください!
            「はい、私は飲んだくれていました・・・
            又人に言えない事も少々はしてしまいました・・・どうかお許し下さい」と。

            全ての神、仏は理解してくれます。
            心配御無用! 悪さは反省し、善はくり返し、人は生きる!
            神、仏はお見通しです。大丈夫!
          
              ああ~サッパリ?した。
              サァー古代の神社でも行くべかチュー!

                                                勾玉鼠小僧拝

                                             

神々のつぶやき No.31 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2020/03/01

我が輩は鼠であります。
ですが、以前は人間もしておりました!
我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
 
【人間と神々との交通ルール!一方通行ではなかったチュー】

その出会いは常に両者の間のどこかで起こる一方通行ではない。
探求者(自分)だけが神へと向かい始めているわけではない。
探求者が向かい始めた瞬間、神も向かい始めているという。
それは同時に起こる。

実のところそれは一連の作用であり、二つの極性をもつ。
探求者(自分)と探求される者(神という何か)
それは一つの現象であると言う。

だが自分が上昇し始めぬ限り神(何かが)は降りてくることはできない。
人間はあたかも現世の生が全てであるかの様に生き続ける。
高みのことなど預かり知らずに生き続ける。
途方もない可能性が開かれているとも知らず・・

人間はそれなりに可能性を秘めて生まれて来る。
いかなる人もその実存の究極の高みは神(何かがいる)と会う事ができる。
人間だけが神(何かが)を探し求めている訳ではない。

神(何かが)もまた人間を探している。
もしそれが一方通行からだけの出来事だったら、
それほどまで一大事、大変なことではないだろう。 
人間と神々との交通規則に一方通行は無い。

それは神(何かが)を想い続け、祈った結果、
神も全く同じタイミングで人間と交差する点にたどり着く。
そして合体、何かが生まれる。あなたは変わって行く。

もしあなたがそれに気が付かないでいるとしたら、それは全てあなたの責任である。
真剣に祈り始め、真剣に上昇を始めてみると同時に
何かが降り始め、あなたと合う事になる。

しかしあなたが扉を閉じ続けていると外に太陽が出ていようとも、
暗闇の中で生きることになるだろう。
又、たとえ扉が開いていて太陽が出ていたとしても、目を閉じていれば真剣に祈りもせず
上昇的に行動すらしないあなたは、依然として暗闇の中で生きていることになるだろう。

神においても同じ事が言える。
神のエネルギーはいつもそこにあり、近くにあり、神も閉じていては人との合体は実現しない。
人間と神との出会いが実現衝突すると、全体と調和し
全体(人生)とともに鼓動することができるようになる。
そしてその時、大いなる恩寵があなたへ降り注ぐ!

と言っている人間と我がチューは会った事があり今回はそのまま伝えます。


                     あぁ~
                     人間と神様の間には交通ルールがあったのだね!
                     私しゃ鼠チャンでよかった!
                     でも我が輩はいつも猫に追われて一方通行チュー!


                                            勾玉鼠小僧拝

                                    

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